2022.06.27

【Vol.2】デコボコだらけの20代

日本中、世界中の人に、尊敬され、感謝される土木業にしたい。
私がそう思っているのには、これまで歩んできた人生経験が深く関わっています。

 

本

 

 

私は、土木工事業を営んでいる両親のもとに生まれました。父は昔気質の人で、短気でおおざっぱ。母は、前に出るような性格ではありませんでしたが、子どもたちを決して見捨てない人でした。

私には、4つ下の妹と、6つ下の弟がいます。妹も弟も、とても真面目で堅実です。
でも、長男の私だけは違いました。よく言えば自由、悪く言えば常識外れ。新幹線の車内で、当時はやっていた明石家さんまの「パーでんねん」を大声で言うような子供でした。
今でも「新幹線事件」として、あんとき、あんたこんなんやったんやで、と親に語り継がれています。

やりたいことは時と場所を選ばずやるし、できるまでやる。
負けん気も強かったせいか、学生のころはケンカに明け暮れていました。むしろ、ケンカするのが当たり前だと思っていました。まわりがそういう環境だったというのもあります。

ケンカして、力で勝って、やりたい放題やる。若いころの私は、そんな感じでした。正直、羽振りも良かったです。
でも、22歳のとき、転機が訪れます。ケンカをして、道を踏み外すようなことをやってしまったのです。

 

気がついたら、人の道を外れて元に戻れない人が大勢いる環境に、身を置いていました。
何度も同じ過ちを繰り返し、更生することができない人たち。
その様子を見て思いました。
「こうはなりたくない…」
価値観が大きく変わった瞬間でした。

それからというもの、私は父の会社に入り直し、必死で働きました。ケンカで作ってしまった大きな借金を返すため、昼も夜もなく働きました。
その頃の私には、土木の現場で重機を操る高い技術がありました。小学5年生のころから、父がやっている土木工事の仕事を手伝っていたので、現場作業を一通りこなせるようになっていたのです。

 

工事

 

測量し、作業の段取りをし、重機を動かし、資材の発注までトータルに行う仕事は、とても楽しかった。でも、28歳になるまで、私の収入は毎月3万円でした。あとはすべて、強制的に借金返済に当てました。

友達に誘われても、飲みにも行けませんでした。「おごったるから行こう」と言われても、行きませんでした。
以前の羽振りの良かった自分からしてみれば、おごられるのは、人に迷惑をかけたり、負担をかけるのといっしょだったからです。

5年間、休みなく働き、ようやく借金を完済。ほかの会社から「うちでも仕事をやってほしい」と言われるくらい、土木工事の腕前は上がっていました。
やっと人並みの暮らしができるようになった。そう思ったのも束の間、私は、ある疑問にぶち当たっていました。
「なんでこれだけ働いても、給料が安いの?」

 

 

道

 

当時、父の会社は、道路の舗装工事を中心にやっていました。業績は上がらず、利益も出ていませんでした。
なぜそうなのか、父や社内の人に聞くと、みんなこぞってこう言いました。
「いまは景気が良くないからや」「いつかは良くなる」

「いつかって、いつやねん…」
私は、土木工事で知り合った同じ業界の社長さんたちに、「どうやったら会社の経営が良くなりますか?」と聞きました。経営のけの字も知らなかったからです。
すると、いろいろな答えが返ってきました。
「ゼネコンの下請が6割の間は、まとまな経営にならんよ」「税務って分かるか?」

いろいろな話を聞いて、私はある答えにたどり着きました。それは、「税理士を変えること」と「公共工事の入札に参加すること」でした。
さっそく、それを社内で実行しようと、会社の幹部に提案しました。でも、私の意見はまったく通りませんでした。聞く耳を持ってもらえなかったのです。

 

言っても言っても何も変わらない。それどころか、いくら働いても給料が上がらないので、従業員は不満だらけ。
私は、会社での不満を、家に帰って母にぶちまけるようになっていました。

あるとき、私の愚痴を聞いていた母が、ひと言、こう言いました。
「あんた、ほかの会社に行きなさい」
(続く)

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